岩下紘己さん(立命館大学大学院)の修士論文

4月25日

「学問としての門戸」
ひらけ!ヒロキ






筆者:さんさん山城管理者 藤永 実






「さんさん山城は、どこにあるの?」
京田辺市興戸・・・
「田辺警察署のとなり!」
と答えると
「・・・ああ、
京都府の農事試験場・・・のとこ??」
との返事が返ってくる。

そして
「むかし、野菜、いちご、
果物をよく買いに行ったわ」と、
農事試験場を懐かしむ話を
多く聞くことになり、
いつも、さんさん山城の話は失せて、
消えてしまう。

また、当時試験場で働いていた方も多くおられ、
そういう人がさんさん山城に来ると
「ここに事務室があって、
私は、この辺に座っていた」と目を輝かせる。
「あそこは試験室があったな」など懐かしむ。

ふと「農事試験場」のことが気になり、
インターネットで沿革を調べて見た。
■1900年(明治33年)
 京都府農事試験場を開設
■1924年(大正13年)
 農事試験場山城園芸場
 (綴喜郡田辺町興戸)を設立
■1980年(昭和55年)
 山城分場が山城園芸研究所として独立
■1997年(平成9年)
 山城園芸研究所・花き分室を廃止、組織再編成
とある。

73年間という長い歴史の中で、
蚕や茶、野菜、果樹、そして
花きなどの研究や農業技術の向上に
取り組んでいた。
地域農業を支える拠点として
農家や地域に親しまれていたようだ。
同時に農家の暮らしや
農村文化の向上にも貢献したであろう。

旧農事試験場山城園芸場
約2haと広大な敷地を有していたが、
廃止後はさんさん山城の一部を残し、
京都府は京田辺市に土地を売却した。

市は隣接する中学校グランドを拡張し、
他の用地については、
現在、田辺公園の増設工事が始まっている。

(現在の様子)


数年後には都市公園に姿を変え、
京田辺市(旧田辺町)の歴史、自然、植生が
また1つ消え去ろうとしている・・・。

さんさん山城はこの歴史ある施設の建物と
一部の農地を2011年(平成23年)に
京都府から借りて事業を開始した。

事業所開所当初から地域に根差した農業を行い、
伝統的な農業や文化の共有を目指して
活動を続けてきたことから、
農事試験場山城園芸場の変遷には
深く関心を抱いており、
貴重な遺産として
後世に残してほしいと切に願っている。




あっ!
今回、施設長から執筆を依頼されたのは、
このような私見を書くのではなく、
修士論文のフィールドワークとして、
さんさん山城に1年8ヶ月通い続けた


立命館大学大学院修士課程人間科学研究科の
岩下紘己(いわしたひろき)くん」を褒め称え・・・
とのことだった。
すみません!

早速だが、
ここでみなさんに
岩下くんが書き上げた
修士論文の中から一文をご紹介したい。



(研究背景 -フィールドとの出会い)
~前略~
この2日間『さんさん山城』との出会いが、
その後の研究の大きな出発点となったと思う。
これまで先行研究等で考えてきた方向性を
まるっきり変えてしまうような、
わたしが前提にしていた枠組みを
土台から突き崩してしまうような、
出会いだった。
まさしくわたしにとって、
頭を殴られたような感覚だった。
百文は一見に如かずとは、
まさにこのことを言うのかもしれない。
事前に集めていた農福連携に関する情報をもとに
膨らませていたわたしの想像は
見事に裏切られたのだった。
『さんさん山城』の活動は
わたしの狭い想像をはるかに超えて、
より広く、より深く、豊饒だった。
『さんさん山城』は、
農福連携で論じられるように、
農業と福祉の両者の課題を
ともに解決するという目的で設立されたわけでなく、
また農業の「福祉力」を
目的としてきたわけではなかった。
たしかに取り組みの形式だけを見れば
農業と福祉の連携という側面において、
まさに農福連携ということになるのだが、
目的や活動の内実は
それにとどまらないものであった――――
ここで一体何が起きているのだろうか。
わたしはもう、後に引けないくらいに
『さんさん山城』に惹きつけられてしまっていた。
これがわたしの
『さんさん山城』との出会いだった。
(Iwashita 2022 修士論文「1.4迫られた方向性の転換」より)



岩下くんが『さんさん山城』に来たのは
2020年7月だった。
彼は、慶応大学卒業で
大学在学時に障害者の方と共に歩んだ
ひらけ!モトム」という本を
すでに出版していた。





秀才で、きっとボンボン育ちで、
すかしたような院生なのだろう、
と勝手乍ら想像を膨らませていた。


ところが・・・



さんさん山城に現れた青年は、
短髪で頭はボサボサ、
薄っぺらのくたびれた地下足袋を履き、
袖がすりへったヨレヨレのTシャツを着ていた。


彼の論文から引用させてもらうと、
わたしが前提にしていた
「慶応ボーイ」という枠組みを
土台から突き崩してしまうような、
出会いだった。
まさしくわたしにとって、
高橋由伸のバットで
頭を殴られたような感覚だった。

農作業などしんどい作業も嫌がらず、





どんなろう者に対しても
積極的にコミュニケーションをとっていたのが印象深い。


粘り強い性格に思う。



彼の行動には、
ろう社会(デフコミュニティ)に飛び込もうとする姿勢、

利用者ひとり一人の心に
入りこもうとする姿勢、


そして何よりも「優しさ」が滲み出ていた。

気がつけばさんさんの人気者になっていた。

(岩下くん 1年8ヵ月に及ぶ




しかし彼の様子を見ていると、
未発表で学術的に優れた修士論文を
いつ、どこで書き上げるつもりでいるのか?
全く見えなかった。

提出期限は迫っているはずだ。

「(大丈夫か?)」
内心、わたしは心配していた。

その半面
「まあ、あかんかったら留年して、
さんさん山城でもう1年働いてくれたらええわ」
とも思っていた。

岩下くんがいた1年8ヵ月のあいだには、

家族や親戚の方々もさんさん山城にお越しいただき、


こちらもたいへん楽しませていただいた。


お礼を言いたい。



そして、年も明けた2022年1月、
事件が起きた。

なんと彼が論文を書き上げたのだ。
しかも、超大作の論文を!
こちらが想像していた以上のボリュームと中身だった。
大学院での評価もすこぶる高かったようだ。



そして3月・・・。
立命館大学大学院修士学位授与式 で、
古式にのっとった衣装に包まれ、



緊張した面持ちで
立派に謝辞を述べる彼の姿があった。


リモート配信された映像
みんなで見てビックリ仰天した。
開いた口がしばらく塞がらなかった。

なんと彼は黒い革靴を履いていたのだ。

小綺麗な恰好の彼を見るのは初めてだった。


岩下くん、卒業おめでとう。
長い間、お疲れさま。





さんさん山城の農福連携の取り組みは、
地域と繋がり、日々変化している。
この実践活動は地域の宝として、
共生社会の実現に寄与するものと信じ、
将来、学問として確立1)されることを願っている。
1)令和元年6月4日 第2回農福連携等推進会議 場所:内閣総理大臣官邸「議事要旨(さんさん山城からの政策提言)」


その「学問としての門戸」を
ひらいてくれた。
「ひらけ!ヒロキ」ありがとう。







「さよならヒロキのさんさん山城」
♪ たくさんの毎日を
ここですごしてきたね~
うれしいこともかなしいことも
きっと忘れない~

♪ たくさんの農業メンバーと
ここで農業をしてきたね~
定植作業も~ 収穫作業も~
ずっと忘れない~

♪ さ~よ~な~ら~
ヒロキのさんさん山城
ぼくたちの遊んだ畑~
桜の花びら降る頃は
社会人の一年生

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