「耕す=culture=文化」(臨床心理士・岩下紘己)

5月27日

「だから、ぼくは問い続けたいと思った」



立命館大学大学院時代、
フィールドワークでさんさんに通い続け
壮大(総代)な修士論文書き上げた
岩下紘己さんの文章をご紹介します。





「だから、ぼくは問い続けたいと思った」


※ 全編読みたい方はコチラから

(前略)
就職活動を控えたぼくを
なぜか捉えて離さなかったのが、
臨床心理学であった。

臨床心理士として働きたい、
と思った。

きっとそれは極端な反動だったのだろうと思う。
それまで大学学部で学んでいた社会学では、
様々な権力作用を解体していく
批判的視点を徹底的に鍛え上げられた一方で、
自分自身の感情や記憶さえも
社会的なものへと
融解されていくような感覚に陥った。
苦悩や葛藤やかなしみさえも。

心理主義化と社会学からは批判されるけれども、
人の生老病死に関わる多様で生々しい感情に、
もっとも真摯に向き合っているのが
臨床心理学であるように
感じられたのだった。
ぼくは臨床心理学専攻で、
大学院の門戸を叩いた。



途端に、泥沼にはまり込む。
大文字の社会という視点からは解体され
消し去られてしまうひとりひとりの生は、
解像度をあげるほどに
周囲から切り離されてしまう。


まさに反転図形であった。


もがけばもがくほどに、
深く沈み込んでいった。

けれども、あるときふと思った。
反転図形の境界こそ、
混乱の正体ではないか。
こころと社会は
そもそも切り分けられるものではない、
のではないか。
だとしたら、
社会学と心理学のいずれもが、
何かを見落としているのではないか。

手掛かりとなったのが、
修士論文のフィールドワーク先、
「さんさん山城」であった。


「農福連携」の先駆事例として
脚光を浴びる就労継続支援B型事業所
「さんさん山城」の活動は、
農業と福祉の連携によって
両者の課題を一石二鳥に解決する、
というようなキレイゴトではなかった。

「さんさん山城」は、
みんなで元気に楽しく働ける場が欲しいという、
ろう者たちの願いから始まった。

その背景には、
言語的少数者として
口話主義的教育をはじめとする
植民地主義的同化の圧力を受けつつ、
障害者として
社会的に抑圧・排除されてきた、
ろう者たちの置かれた
歴史的状況があった。

はじまりは、
京都、大阪、奈良をつなぐ結節点に位置する
京田辺の地から生まれてきた、
ろう者と聴者の垣根を越えた
草の根のろうあ運動だった。

手話通訳者設置運動や
聴覚障害者支援施設設立運動など、
さまざまな特定の権利保障要求運動から始まり、
やがて生活全体を支える
自助的な活動へと転換していった。

当初は彼ら自身の楽しみのひとつとして、
たまたま身近にあった農業を始めたのだった。


自分たちの願いを実現するために
最も使い勝手のいい制度として、
就労継続支援B型を利用した。
そうして「さんさん山城」は産声を上げた。


それは抑圧されてきた
自らの歴史的状況に抗しながら、
自分たちの生活を豊かにするための
ろう者たちの活動であった。

いつしか、
ろう者だけでなく知的障害者
精神障害者も加わり、
活動内容も農業と縫製だけでなく
喫茶や菓子加工へと広がっていった。



もっといいものを。



もっといろんな人を。



際限なく展開してゆく自身の活動の様を、
彼らは
「耕す=culture=文化」
という言葉を引きながら
「文化活動」と呼ぶ。

「ひとりひとり人生の文学があるのだから、
活動のかたちに正解や完成はあるはずがない」
と彼らは言う。

新たな人が入ってくるたびに
「さんさん山城」は姿かたちを変え、
そのたびに耕され、
豊饒な実りがもたらされると同時に、
より多様な人にとって
居心地のいい場所となっていく。

自らよりよい社会を
築いていくことと、
豊かな人生とこころを
かたちづくっていくことは、
同じものの異なる側面———
いわばコインのなのだった。


筆者:岩下紘己(いわした ひろき)
立命館大学大学院人間科学研究科修士課程を経て、
2022年4月より島根あさひ社会復帰促進センター勤務(民間社会復帰支援員)




さんさん山城コミュニティカフェ
5月30日(火)から営業再開します。





トップページに戻る